文芸助手の戯曲の読み方──アマヤドリ新作二本立て・ロングラン公演【アマヤドリ:稲富裕介】

初めまして。来月11月に花まる学習会王子小劇場にて1ヵ月の新作二本立てロングラン公演を行なう劇団「アマヤドリ」、そのアマヤドリに所属する文芸助手の、稲富裕介と申します。

今回は小角さんに次いでコラムを寄稿させていただきます。

文芸助手とは?

ところで、文芸助手とは一体何でしょうか。私もよく分かっていません

アマヤドリ主宰の広田淳一さんからスタッフとして正式に参加しませんかと誘われたとき、適当に付けた役職名にすぎないからです。

私がやっていることは、広田さんの戯曲を読んで意見を述べたり疑問点を指摘したりすること、それだけです。ただその一点で広田さんの執筆に貢献できているかぎりでのみ面目を保っている役職です。

共同執筆者ではないですし、あくまで広田さんの構想した枠内での戯曲の質の向上を目指すので、作品全体の批判を言い立てたりすることはありません。

でも、その枠組み内で広田さんが間違った方向に進んでいると感じたら、踏み込んだ意見も言います。その場合わざわざ広田さんと対立してまで自分の主張を押し出す根拠は、「もしかすると自分の方が作者の広田さん以上に広田さんの戯曲を読めているかもしれない」という謎の自負です。

広田さんと伍する読解力があるからこそまだ広田さんが気付けていない問題点を自分は指摘することができる──。そう錯覚でもしていなければ、劇作家として確たる自我を持つ広田さんと議論などできません。

言わば、自分の読解力だけを武器に少しでも戯曲が良くなるよう最後まで介入しつづけるのが、文芸助手の役割です。

そういう立場から、昨年秋に再演された『月の剥がれる』を例に広田さんの戯曲の魅力を解説するというのが、今回のこのコラムです。

広田淳一戯曲の魅力:人物本位の対話

さて。あらためて言うまでもないことですが、アマヤドリは広田さんの戯曲の上演を活動の中心に据えています。戯曲の特色はアマヤドリの舞台の特色の少なくない部分を決定づけます。

広田さんの戯曲の特色は何か、と問われたなら私は「人物本位の対話」と答えます。登場人物を物語や設定の道具にしない、という意味での人物本位です。

その真価は、登場人物たちが対等であるようなフラットな状況で、それぞれの全人格が問われる対話が描かれるときに十全に発揮されます。

利害関心、権力闘争、二枚舌の詐術、といったはかりごとを離れて人物ひとりひとりの人格の本質から対話の緊張が生まれているシーンを、立場や力関係からではなく人物間の微妙な関係から葛藤が生まれているシーンを、アマヤドリの舞台からはいくつも例示することができるはずです。

広田さんが「(作者が作り出した)登場人物であっても作者にとって他人だ」と言うのを聞いたことがあります。広田さんの劇作家としての本能的な態度を表わす言葉だ、と思います。

他人だから、作者が登場人物たちのすべてを理解できるわけではない。作者が好き放題やっていいわけでもない。作者には彼らの人格に対する責任が生じる。それは、登場人物に実在のモデルがいる場合には当然必要とされるモラルですが、その節度を虚構のキャラクターにも維持するところが広田さんの面白いところです。

そして、そういう特色をよく表わす、戯曲『月の剥がれる』からの一シーンを、ここで取り上げてみたいと思います。

政治的なテーマを持つ大作『月の剥がれる』のなかではあまり目立たないシーンですが、人物本位の対話と考えた場合、このシーンの生彩はまぎれもありません。第二幕後半、阿南寧々、馬場フミオという二人の男女が対話するシーンです。

『月の剥がれる』──阿南寧々×馬場フミオ

引用に先立ってシーンの文脈を説明します。阿南寧々、馬場フミオ、この二人はいずれも或る組織のメンバーです。引用するシーンは、その組織が全員で自殺をする方針を決めた流れのあとにつづく対話です。

こう書くとなかなか物騒ですけれど、自殺するかしないかは個人の自由で、そもそもいずれ自殺に踏み切ることも想定しつつこの組織に所属していたので、二人に切迫感はありません。

馬場フミオの方が先に組織に入っていて、樹海で遭難(自殺)しようとしていた阿南寧々を同組織に勧誘したのが最初の出会いであり、二人の関係性の発端です。そのときから馬場フミオは彼女に好意を抱いていたとおぼしいですが、はっきりした恋愛感情が描かれることはありません。

物語の流れからすると、この対話のあと、二人ともそれぞれ個々に自殺したと考えるのが妥当です。フミオの最後の科白「じゃ、先、いってます」はそういう意味です。

その前提で引用を読んでいただければと思います。

言い添えておけば、引用を短縮するためにところどころの改変と一部中略をしています。原文どおりのテキストは、アマヤドリの公式サイトで戯曲が公開されているのでそちらを参照願います。

————-supplement boader
(寧々とフミオだけが居る)
阿:逃げるのが正しいときもある♪
戦えないのが正しいときもある♪
ゆけー、ニンゲーンー、どもたちィーどもー♪
馬:なんすかそれ? 誰の歌っすか?
阿:ん? 作ったの。今自分で。
馬:やっぱ怖いんすか。
阿:知らない。分かんないよそんなの。
馬:でも、未遂とかだったらしたことあるんすよね。
阿:んー、お酒とかガブガブ飲んでやったから。
馬:そんな状態でやって、意味あるんすか?
阿:意味はないんじゃない。はじめっから。
(一拍)
阿:──そう言えばさ、フミオ君に最初に会ったときは引き止めてもらったんだよね、結果として。
馬:でしたね。
阿:こんなこと言ったら、「俺〔フミオ〕が」困っちゃうのかもしんないんだけどさ、……あたしやっぱ死にたくないわあ。
(一拍)
馬:変わったんすか。なんか状況が。
阿:知らない。分かんないけど。
馬:そっすか。
(一拍)
馬:あの、死のうとする人間を止める「殺し文句」って二つあるんですよ。
阿:「殺し文句」だったら殺しちゃうじゃん(笑)。えい、えい、わー。
馬:そういう意味じゃないっす。
阿:「命を大切にね」とか、そういうやつ?
馬:そんなん一番意味ないすよ。命が大切だってことくらい、誰だって分かってますから。
阿:「人生苦もありゃ楽もあるさ!」「今はがんばろう!」とか?
馬:さすが、経験豊富。
阿:うるさいよ。
──[中略]──
馬:寧々さんが死んだらダメな理由ってまあ、正直全然ないですけど。
阿:うん。
馬:俺は死んで欲しくないっす。
阿:へー。死んじゃヤダ?
馬:はい、少し。
阿:少しかあ。
馬:でも、俺は心の底から「ヤダ」なんて言える人間一人もいないっすよ。というか、本当はみんないないんじゃないすか。別に嘘ついているとまでは言わないですけど、──酔ってるんすよ。そんなこと言ってる自分に。
阿:それはそうかもね。いたいた、酔ってる人。
馬:そっすか。
阿:うん。
(一拍)
阿:ね、あたしが死んだら、ちょっとは悲しい?
馬:それ聞いてどうすんすか。
阿:いいじゃん、答えてよ。
馬:……泣きますよ。大泣きします。
阿:ははは。ホント?
馬:ホントっす。
(一拍)
阿:なんかありがとう。嘘つかれてるのに、騙されてる気がしない。
馬:人騙すために嘘ついたこと無いっす。
阿:へー? じゃあ、何のためにつくの?
馬:礼儀っす。
じゃ、先、いってます。
————-supplement boader

抜き出してみれば、さらっと読める何でもないシーンです。とくに劇的なことが起こるわけではありません。物語を進めるために不可欠なシーンということもありません。

しかし、このシーンにおける科白の組み立て方はとことん繊細です。

これから二人とも死んでいくという背景がありながら、つまり、最後の会話になるだろうと分かっていながら、直接相手に言葉をぶつけることをせず、微妙に距離を詰めていく。作中、この二人のみのシーンはここだけですが、わずかな言葉の感触で二人の関係性が暗示されています。

何か説明できる事由や設定から二人の関係を理解させるのではなく、まさにこういう対話を交わせる関係として、二人の相性が示されている。

二人のあいだに恋愛があり得たかどうか、それは最後まで分かりません。たとえ相互に恋愛感情を抱いていたとしても、それをじかに告白できない人物として、二人とも描かれています。

男女のシーン、しかも「死」を背景にしているシーンだから、たとえばフミオに「寧々さんのことを愛してます。死んで欲しくないです!」と言わせればいくらでもロマンティックになり得る状況です。

でも「そんなこと言う人は、自分に酔ってるんすよ」「そうかもね」という沈着なアイロニーで、お互い感情の吐露は抑制されます。その上で、二人の関係がそうしたアイロニーにとどまらないことが、一拍置いての寧々の「あたしが死んだら、ちょっとは悲しい?」の問い掛けから垣間見られる。ほんとうに繊細です。

そこからさらにつづくやり取り──「泣きますよ」「嘘つかれてるのに騙されてる気がしない」「人を騙すために嘘ついたことなんかない」「じゃなんのため」「礼儀っす」──これもすさまじい。

フミオは本心から泣きますと言ったのか、礼儀で言ったのか。寧々はほんとうに嘘をつかれていると感じたのか、わざとはぐらかしたのか? ──文芸助手として一つの解釈を述べれば、フミオの「泣きますよ。大泣きします」は、六割方本気、四割方嘘、です。

この前のくだりで「酔ってるんすよ、そんなこと言う自分に」と自分で言ってしまった手前、自分の恋愛感情を十割本気で言うこともできないし、死ぬ前に今更そんな吐露をしてもしょうがないと思っている。それがゆえの六割本気、四割嘘です。

そして、寧々もその六割の本気を暗々裏に感じ取っています。だから四割方「嘘つかれている」のに、六割方の本気に対しては「ありがとう」と言っている(そういう本気を最後に聞かせて欲しいからこその「あたしが死んだら、ちょっとは悲しい?」だったので)。

寧々の「嘘をつかれてる」という言葉は実際にはそうでないことを知りつつその逆を言っている言葉です。寧々の言葉も十割本気で言っているのではないわけです。

さらに、このあとにつづくフミオの「人騙すために嘘なんかついたこと無いっす。……礼儀っす」という言葉もまた、表面通りの意味ではなくて、十割の本気に四割の嘘を混ぜて、死ぬ間際になっても自分に陶酔を許さなかったことを「礼儀」と表現しているものだと、私は読みます。男女の不即不離な情愛の機微を描いたやり取りの帰結として。

このように一行一行精緻な読みが可能な二人の対話ですが、実は、このシーン、私と広田さんとで解釈が割れたシーンです。

その場合でも、作者が戯曲を一番良く理解しているとは限らないかもしれない……というのが、文芸助手としてのスタンスになります。もちろん証明問題のように戯曲読解の正解などないし、観客の方々もこのシーンをさまざまに読み取ったはずです。

読者の方も、もう一度上の引用を読み返して、試しに自分なりに読解されてみたら面白いかもしれません。

ついでに劇場の物販で『月の剥がれる』のDVDを初演版・再演版ともに購入し、ご自身の目でこのシーンがどう上演されたのか確かめてみることをお勧めします。(ダイレクトマーケティングの一例)

新作に向けて

11月の新作二本立て公演に向けての文芸助手業務は、この記事を書いている9月時点ではまだ本格化していません。

はたして、今回もまた私と広田さんとでシーンの解釈は割れるのか。はたして、今回の意見の相違はどこまでエスカレートするのか。どれだけの文芸助手メールが書かれるのか。どれだけの血が流されるのか。俳優たちの「また文芸助手が意見言ったせいで戯曲が書き換わって私たちの負担が増えたんだけど?」という冷たい眼差しに俺は耐えられるのか。俺は、劇団から追放されずに済むのか──。

すべては神のみぞ知るです。とりあえず文芸助手として誠心誠意努力すること、ここに誓っておきます。

ご期待ください。

稲富裕介

1978年生まれ。2014年の『ぬれぎぬ』より非公式にアマヤドリの演劇創作に協力する。2015年の『すばらしい日だ金がいる』から文芸助手として正式参加、2016年より劇団員。

アマヤドリ

2001年に「ひょっとこ乱舞」として結成。2012年に「アマヤドリ」へと改称。広田淳一によるオリジナル戯曲を中心に、現代口語から散文詩まで扱う「変幻自在の劇言語」と、クラッピングや群舞など音楽・ダンス的な要素も節操なく取り入れた「自由自在の身体性」を両輪として活動。リズムとスピード、論理と情熱、悪意とアイロニー、とか、そういったものを縦横に駆使して、「秩序立てられたカオス」としての舞台表現を追求している。

【次回公演】

アマヤドリ新作二本立て・ロングラン公演『青いポスト』/『崩れる』
■日程:2017年11月4日~12月3日
■場所:王子小劇場

『青いポスト』/『崩れる』公演詳細ページ
http://amayadori.co.jp/archives/9994

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