表情豊のはしくれ水滸伝 第四回「感受性応答せよ」

「しばいのまちを嫌いになっても、私のことは嫌いにならないで下さい!」

使い古され、コスられ倒した元アイドルの名台詞が、私の頭には浮かんでおりました。ちょうどしばいのまち連載第三回のイラストを描いていたときのことです。

某月某日、しばいのまち、炎上。

「しばいのまち」が「炎上」とは皮肉なもので、自分で「まち」つっといて「炎上」しちゃったってことは、どこかに火種があったってことで、顛末を見ていると、突然どこからか放火魔がやってきた、というわけではないらしく。連載を持っている以上「しばいのまち」の住人である私も、フォロワーの方から「もうあの媒体で書かないで下さい」などとDMを頂いたりもしました。

まあしかし、やめてない。書いております。

なぜ「しばいのまち」で書くことをやめないのか

それは何故かというと、まあ、単純に私自身が媒体を選べる程の身分ではないということと、私のようなどこの馬の骨ともわからないような人間に記事を書かせてくれているしばいのまち町長への感謝の気持ちエトセトラエトセトラと、あとは、しばいのまちがどういった媒体であろうと、私の記事が面白ければ評価され、面白くなければ叱咤され、読まれなくなるだけだと思うからなのです。

何かを発信する、ということは、共感を得たり、反感を買ったり、そのどちらも受ける可能性があるということで、だからこそ配慮も必要なわけで、まあ、それが面倒だったり、怖いんだったら黙ってろ、というだけの話。

そりゃあ「みんながみんな自由に、仲良くhey!和に」なんてのは理想論であって、ゆずの通算33枚目のシングルなのであって、えっもう夏色からそんなに経つの?という驚きを隠せないのであって、そういえば「ゆずみたいなミュージシャンになる」といって中学指定のジャージを着て地元の駅前で歌っていたあの子は今工場で働いているな、なんてセンチメンタルな気分にサヨナラバスしたくなるのであって。

以下の文章は、しばいのまち炎上騒ぎに伴って、「こりゃあアレなんじゃねえか」という自己判断でお蔵入りさせた記事なのですが、今読んでみると、まあ、その時私が感じたことに嘘はなく、まちが炎上してるからってだからなんなんだ、という開き直りと、「誰が読んでるかわからないのだから」という大人としての配慮と、「私の記事なんて誰も読んでないのでは?」という卑屈さと、そのほか諸々で「自分会議」を開いた結果、再掲して頂く事に致しました。

全然関係ないけど、「ココ噛んでェ~!」

これは、吉原炎上での西川峰子の名台詞で、SNSで「炎上」という言葉を聞く度にこのシーンが浮かんでしまうのは私だけではないと思うのですがいかがでしょうか。未見の方は是非どうぞ。名作です。

評判の芝居を見に行ってみた結果

先日、「面白い」と評判のお芝居を観てきました。その「評判」。一体、誰が、どこで、いつ「評判」にしているのかというと難しい話になってくるのですが、SNSで回ってくる感想、劇評などを見ていて、気になって、なんとなく見に行ったのです。

結果から言うと、私には合いませんでした。

「面白い」と感じることが、この作家と私ではこうも違うのか、と、いっそ感心してしまうほどに、全く、そのお話には私にとって引っかかりがなかったのです。

このコラムを何度か読んで下さった方はもう、うすうす感づいているかもしれませんが、私の成分はほぼ、ねたみひがみそねみで出来ております。

西に、自分より売れている作家があればわざわざ情報を収集しては爪を噛み、東に、自団体より大規模な公演をしている団体があればわざわざ見に行ってハンカチを引きちぎり。そんなふうに毎日が焦燥感のお祭り騒ぎなので、さぞ今回も悔しい思いをするのだろうと思っていたのですが、見終わって、なんというか、「無」。無我の境地。

嬉しいでも楽しいでも悲しいでも腹立たしいでもなく、滝のようにただどうどうと、「無」がやってきたのです。

全く違う感性

こういう経験は今までにも何度かありました。「もしかしたら、羨ましすぎて己の中にある醜い嫉妬の感情を、自らシャットダウンしてしまっているのでは?」と自己分析をしたりもしてみましたが、なんというか、私は自分に嘘がつけないタチなので、そんなようなことが一ミリでもあれば「気付いてしまう」し、それを「見なかったことにはできない」のです。

でも、それではなかった。単純に、全く感性が違いすぎて、「別世界の、別言語のお話を見ているようだった」のです。

今の私にはない「売れる」理由

「売れたい」

この世界にいる人間なら、誰しも一度はそう思ったことがあるのではないでしょうか。

「売れる」と一言で言っても形は様々で、例えば、近々の目標を、「駅前劇場に立つ」ことにしているのか、「本田劇場に立つ」ことにしているのか、はたまた「テレビに出たい」なのかとか。作家、役者、スタッフ、でも「売れる」の定義は違ってきますし、例えば役者だったら、テレビのレギュラーを何本も持っていても「主役じゃないから売れてない」と認識する人もいるでしょうし、テレビの仕事はしたことなくても、「アンサンブルでパルコ劇場に立った」という事実で、「売れた」と認識する人だっているでしょう。

私が「無」になったお芝居を作ったいくつかの団体は、確実に、私より「売れて」いました。

「売れる」には理由があります。私の小さな脳みそでは到底理解が出来なくとも、私より大勢の人の心を動かせる何かが、その人達には、その作品にはあるのです。

でも、私にはさっぱり分からなかったのです。前述の通り、「売れる」には理由があって、それは今の私にはないもの。いくら合わない作品だからといって分かろうとする努力は惜しんではいけませんし、実際、自分なりのその作品の「面白さ」を分析したりもしました。

しかしそれは、なんというか、ただの「作業」。心震える作品を見たときのあの高揚感はひとつもなく、ただただ、心が摩耗してゆくのみ。

なぜ「面白い」と思える作品を作ろうとし続けるのか

「なんのためにやっているのだろう」

二十歳そこそこから芝居をはじめてそろそろ十年。途中、ほとんど何もしない期間も多々ありましたが、なんだかんだで十年近くこの業界に身を投じ、最近ようやくわかったことがひとつあります。

「自分が心底『面白い』と思える作品を作りたい」

いや、当たり前ですよね。当たり前のことなんです。ていうか多分はじめたきっかけもそんなようなことなんです。

勿論お金を払って見てもらう以上、お客様のことを一番に考えるべきなんですが、その「お客様」。「お客様」は、「個人」であって、「お客様」という一括りにしてはいけないのです。

赤が好きな人、青が好きな人。コメディーが好きな人、シリアスが好きな人。そのすべての「お客様」に対し、完璧なものを作り上げるということは不可能で、だからこそ、チラシやHP、あらすじなんかで、己の、自団体の、自分の作風の「個性」みたいなものをお客様にアピールし、気になった方には見に来ていただく、という構図になっているのです。

誤解のないように言っておきますが、「お客様を選ぶ」なんてつもりはさらさらありません。おこがましくって考えたこともありません。あ、今考えたか。考えました。でも違う。そういうことではありません。つまり何が言いたいかというと、

まとめ

まずは「自分のために書いてみる、作ってみる」ということも、大事なことなのではないのでしょうか。

余談ですが、最近我が子の体力がすさまじく、いよいよ日中(お昼寝タイム)にパソコンをいじれる時間がなくなってしまいました。そんなこんなで夜中にこの四コマを描いたので、なんだかポエミーな感じに仕上がってしまい、この記事が公開される頃には恥ずかしさで死にたくなっていること請け合いです。

ものすごく評判がいいからと言って、ものすごく「あなたにとって」「わたしにとって」面白いわけではなく、ものすごく評判が悪いからと言って、ものすごく「あなたにとって」「わたしにとって」つまらないわけではなく。

信じられることはただひとつ、自分の感性であって、それは誰にも邪魔されてはいけないし、してはいけない。
そうして、今日も、パソコンに向かうのです。というお話でした。多分。

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表情豊

表情豊
「HYP39Div.」主宰。脚本、演出、出演、だけに留まらず、コラム、イラスト等、頼まれれば大体のことはやる女。人生で一度も痩せていた事がない。横スクロールのゲームをやると吐く。
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