「劇団を続けるために必要なこととは?(2)」アマヤドリ主宰:広田淳一〜アマヤドリ15周年公演「銀髪」特別企画〜

どうも広田です。こういう話題は書けば書くほどきりが無いですが、一応、今回で最終回ということで、えーと、がんばってまとまった感じになるように書いてみたいと思います。

さて。前回はいきなり劇団の崩壊を食い止めるための方法について書いてみたが、しかし、そもそもどんな劇団だっていつかは解散するわけだ。

諸行無常、盛者必衰。だから問題は、いかに崩壊を防ぐか、ということよりはむしろ、いかなる形で劇団を終わらせるか、どんな状況になったら劇団を続ける価値がないと判断するべきか、ということだろう。

僕は、次の三つのような状況になったら劇団を続ける価値が無いと考えている。

(1)芸術的な価値を共有できなくなった時

(2)目標を共有できなくなった時

(3)劇団活動によって社会的な貢献がはたせなくなった時

前回までの記事はコチラ

・劇団を始めること。劇団とはなにか?
・なぜ劇団にこだわるのか?~創作における劇団の利点と可能性~
・劇団を続けるために必要なこととは?

(1)芸術的な価値を共有できなくなった時

まず、(1)芸術的価値を共有できなくなった時について。これは集団が終わるタイミングでもあると同時に個人が集団を離れるタイミングについて述べたこととしても通じるだろう。どんなことか。

話はやや個人的な切り口になるが、演劇を続けていくことは、あるいは、広くアートに関わっていくことはもちろん創造行為を含んでいくわけだが、それは何か創造するとともに破壊していくことをも意味するものだ

たとえば、僕は新作を書く時にはやはり前回とは違う何かを作りたいと願うわけで、それは部分的に今までのやり方を捨て去り、忘れていく作業を含んでいる。

すでに終えた創作にこだわって、あの時のあの作品が最高傑作だった、と言い出してしまったらそこから先には進めない。創作においては仮説を仮説のままに信じ抜く体力も必要だが、同時にまた今までの方法を捨て去り、何度でもゼロ地点に立ち返ってみる必要もあるだろう。

僕はいつも新作を書く時には「こんな作品を作ろう!」という地点からスタートすることがなかなかできず、「いや、待て、そもそも戯曲を書くっていうのは、なんだっけ……?」という場所から考え始めることを余儀なくされてしまう。

正直しんどい。しかし、「いい台詞ってなんだっけ?僕にとって、何が書けたらいい作品と言えるんだ?」こういった根本的なことを根っこから疑い続けていなければ、自己模倣のループに陥っていってしまうだろう。

これは物事を前に進める力というよりは、むしろ立ち止まる力、根っこから疑う力だと言える。そしてそれこそが芸術を真に創造するための原動力ではないかと思っている。

純粋にビジネスの話であれば、売れ筋商品は売れている限りにおいてはある程度信じてよいのだろうし、まったく同じ商品を作り続けてもいいだろう。なにせ売れているのだ。だが、創作ではそうはいかない。

特に小劇団には何年もロングランを続行していくだけの体力も無いし、そういった場所として僕は劇団を考えていない。

劇団をやっていればその劇団のカラーというものは自ずから出て来るだろう。その上で、自分たちの劇団の特徴を熟知しそれをいかにアピールしていくか、などということも重要になってくる。

だが、それはあくまでも興行としての重要度であって、芸術としての重要度ではない。

たとえばRadioheadというバンドが『Kid A』というアルバムを作った際には、それまでの彼らの音楽を好きでいた人の多くが反発を覚えたというが、同時にその作品はロック史を変えるほどのインパクトを持ったものとしても知られている。

激しく音楽性を変化させたことでRadioheadは多くのファンを失うと同時に、また別の多くのファンを獲得した。芸術として問題になってくるのは、その失った数と獲得した数のどちらが多かったか、ということではなく、あくまでどちらが彼らにとって満足のいく創作だったのか、ということだ。

売れるからと言う理由で、自分が美しいと思えない絵画を描き続けていたらその画家は面白くないだろう。次第にその画家/イラストレーターはなんのために描いているのかわからなくなってしまう。

演劇もまた、集客できるからといって自分たちにとって面白くない何かを選んでいってしまってはいつか続けることができなくなってしまうのではないだろうか。だからこそ自分たちが本当に面白いと思える芝居を打ち続ける。

これは、とても難しいことだが必要なことだ。そしてそれは、きっととても楽しいことのはずだ。それが出来なくなった時には劇団を続けていくべきではないだろうし、逆に言えば、そのことさえしっかりと見失わなければ、対外的には大した成功を収めていなくてもきっと劇団を維持していくことができるんじゃないかと思う。

もしかしたらそれは始めからバブリーな成功を夢見ていない2000年代的な思考方法なのかもしれないが、アマヤドリの劇団員を見渡しているとそういう側面を持っていることを痛感する。

自分たちが自分たちの作品を信じられるということ。それほど集団にとって強いものは無い。これはしかし、個人のレベルでさえ、見つけることは難しいし、共有し続けるとなればなおさらだ。

自分はどんな演技をしたいのか、どんな台詞を書きたいのか、どんな絵を描きたいのか、もちろんそれは不変のものではない。年齢によって状況によって、刻々と変化していくものだ。

だから、各人が各人の本当にやりたいことを考えてみた際に、それが大きくズレているのであれば同じ集団を続ける理由はもはやそこに無いといっていい。

その時には愛着や習慣でその集団に所属し続けるより、自分の本当にやりたい表現を求めて新たな場所を模索するべきだろう。

もちろん、人は一人では生きていけないし演劇は一人では作れない。だからこそ、安定した創作環境を提供してくれる劇団という場所は構成員にとって時に居心地が良く、都合のよい場所にもなっていく。

その安定感を否定するつもりはないが、ひとりひとりが芸術家であることをやめないためには、その集団の作りつつあるクリエーションに本当に価値があるのかどうかを各々が問い続けていく必要があるだろう。

(2)目標を共有できなくなった時

劇団は芸術団体でもあり、商業団体でもある。したがって、劇団の目標というものはそれぞれの位相において別々に存在する。

それは制作サイドと創作サイドの乖離として表面化するのかもしれないし、個人のレベルと集団のレベルにおいて顕在化してくるものなのかもしれない。

いずれにせよ目指すところがあまりに違うのであれば、その個人は集団にいても意味がないし、その集団は終わりを迎えた方がよい。

しかし一方で、「目標」といってみたところで、実は自分たちがどんな表現をしたいのか、どんな作品を生み出したいのかをはっきりと明確に打ち出すことは原理的に不可能なことでもある。

もちろん仮の目標を設定することは可能だし、その必要もあるだろう。だが、すでに知っている何かを創ったとしてそれは本当に何かを創ったことにはならないわけで、要するに、創作の結果何が生まれるかは創作するまでわからないのだ。

これは、小説だろうと美術だろうと演劇だろうと同じことだろう。したがって、自分がどんな作品に関わりたいのか、ということに対しては誰しも暫定的なビジョンしか持ち得ない。

反対に、絶対に手放してはいけないと思うのは何に疑問を感じ、何を知りたいと望んでいるのか、自分の否定しようもなく引っかかってしまう地点、欲望を感じてしまう点を探っておき、知っておくことだ。

集団においては、それぞれに興味関心の異なる人間がひとつの創作に向かうわけだから、興味関心のズレの大きさを見誤らないようにしなければいけない。目指すところの差異、そのことも、折に触れて個々が立ち止まって考えて見る必要があるだろう。

余談だが、ここで僕が言っている「目標」というのは、あまり具体的なもののことではない。

具体的な目標を持つ、あるいはそれを共有するということに関して僕はとても懐疑的だ。というのも、事実として僕はこの十五年間、ほとんど具体的な目標というものを抱いたことがない。

たとえば、「◯◯劇場で公演を打つ!」とか「◯◯人動員するぞ!」とか、あるいは「◯◯さんと仕事をするぞ!」とか、まあ、そういったわかりやすい目標は、あってもいいとは思う。

思いはするが、実際問題として、僕の中では問題になってこなかった。その逆に、僕にはもっと遠くにある目標の方が大切だと感じられてきた。すなわち演劇を通じて何をしたいのか?どんな瞬間を作りたいのか?どんなことを追求したいのか?というようなことだ。

動員数や、劇場のサイズをなぜ信じられないか。それは、自分たちが世間にどの程度評価されるのかを、自分たちでは決定できないからだ。

たとえば、まったく自分の描いた絵が売れなくても、自分が創作に歓びを感じていて、美の追求が進んでいると感じられているのであればその画家は絵を描き続けた方がいいと僕は思う。

もちろん生活は苦しいし、評価されないことはそんなに甘いことではないと多少は理解しているつもりだが、それでも、その画家は描き続けて良いんだと思う。その逆の場合は、きっとそろそろ絵を描くことを辞めたほうが良いと思う。

この十五年間、僕の創作を支えてきてくれた原動力はいつも疑問文として表現されるような感覚たちだった。

人間ってなんなんだろう?自由ってなんなんだろう?悪ってなんなんだろう?なぜこの人はこんなに魅力的なんだろう?どうしてこの人はこんなにもクソに見えるのだろう?

なぜ、どうして、なんで、という感覚が、僕の創作を支えている原点なんだと思う。

そして、稽古場や本番でたびたび出会う、「へー、人間って面白いなあ/すごいなあ/愛おしいなあ」といったような感慨。それが一番の報酬になってきた。

もちろん動員が増えたり、興行収入が増えたら嬉しくて飛び跳ねたりもする。が、それはあくまで副次的な問題だ。

小さな問題だとは決して思わない。だけど、二次的な問題だ。本当に正直にいうと、お客さんが喜んでいようが、退屈していようが、それも大した問題ではなかった。

もちろん、お客さんが感動してくれていればすごく嬉しいし、極論すれば劇団とは「お客さんに楽しんでもらって、感動してもらうため」にやっているといったっていい。

その気持も本当だ。だが、お客さんが楽しんでいても自分がつまらない、そんな作品は大切じゃない。その逆に、お客さんからは不評であっても、どうしても自分自身ではかけがえのないほどの価値を感じてしまう作品というものがあるわけで、どちらを求める力の方が創作者としてのより強い原動力になっていくのかは言うまでもない。

芸術上の価値観でズレていく場合と、それとは別に、芸術と生活の水準での目標設定の間でズレが生じてしまう場合がある。それが僕の実感だ。

(3)劇団活動によって社会的な貢献がはたせなくなった時

最後に、(3)のような場合もやはりその集団は続ける価値がないと思う。

(2)で世間の評価は芸術にとって関係ないといっておきながらなんだが、やはり人間関係というものは時を経て成熟していくものであると同時に、時とともに腐敗し、どうしようもない不正の温床にも育っていってしまうものだからだ。

腐った人間の腐った行為というものを、集団が覆い隠してしまうということは、残念ながらしばしば見られることだ。

誰もが正しくないと感じていたけれど止めらなかった、ということが集団の内部で発生することを僕は何度か見てきた。そんな時は劇団を潰してしまうほうがよい。

これはもう各人の美学の問題なのだろうし、何が正しくて何が腐っているのか、それは簡単にここで述べられるようなことではないが、権力の問題や、金銭の問題、個人への暴力の問題や、様々な不正。そういったものと個人は個人としていつも闘わなければいけないと僕は思う。

再び、「問題の解決に寄与していないのであれば、あなたもまた問題の一部である」。だから、各々の基準で良い。自分の基準によってその集団のやっていることが腐っている、と感じたのであればその構成員が率先してその集団を潰すべきだ。

「業界ではよくあること」「みんなやっている」「昔からそういうもの」そんな言葉に怯んで自分たちの美学を捨ててしまってはそれが新たな悪習と悪癖を育てていくだろう。

演劇業界にも、芸能界にも、いい点もあれば悪い点もある。個人が暗部と出会った時に目をつぶってその前を通り過ぎるのではなく、その場その場で各人が戦うこと。そうでなければいつまで経っても業界は変わらない。

もちろん、完璧に正しい集団なんてないし、完璧に正しい個人なんていない。

目をつぶり、やりすごすしかない場面もあるのかもしれない。でも、僕自身がそういった不正の親玉になってしまった時には、どうか劇団員たち、あるいは関係者たちによってアマヤドリをぶっ潰してもらいたいものだと僕は願う。

たとえそれで自分の半生のすべてを失うのだとしても、失われることそのものがもっと大きな何かに対しての貢献になるような崩壊だって、きっとあるはずだから。

広田淳一(ひろた・じゅんいち)


1978年生まれ、東京都出身。2001年、東京大学在学中に「アマヤドリ」の前身である「ひょっとこ乱舞」を旗揚げ。全作品で脚本・演出を担当し、しばしば出演。
Twitter @binirock

アマヤドリ

2001年に「ひょっとこ乱舞」として結成。2012年に「アマヤドリ」へと改称。広田淳一によるオリジナル戯曲を中心に、現代口語から散文詩まで扱う「変幻自在の劇言語」と、クラッピングや群舞など音楽・ダンス的な要素も節操なく取り入れた「自由自在の身体性」を両輪として活動。リズムとスピード、論理と情熱、悪意とアイロニー、とか、そういったものを縦横に駆使して、「秩序立てられたカオス」としての舞台表現を追求している。

【次回公演】

※公演終了
アマヤドリ本公演『銀髪』
■日程:2017年1月26日(木)〜31日(火)
■場所:本多劇場(下北沢)

「銀髪」公演詳細ページ
→  http://amayadori.co.jp/archives/8910


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