「なぜ劇団にこだわるのか?~創作における劇団の利点と可能性~」アマヤドリ主宰:広田淳一〜アマヤドリ15周年公演「銀髪」特別企画〜

さて、今回は劇団が何の役に立つのか、という話題。ぶっちゃけた話、劇団というものはいいことばかりではない。

とにかく同じ人間たちとずっと関わり続けるなんてウザいものだし、長年やっていればいろいろと人間関係のわだかまりだって溜まっていく。だから、「プロの俳優と、プロの演出家と、プロデューサーとスタッフ達がいて、プロ同士でその都度あつまって創作をする。それが理想なんじゃない?」という方もおられるだろう。

それにも一理ある。確かに、劇団に所属したことなんてまったくないすばらしい俳優たち、アーティストたちはたくさんいる。それでも僕は劇団にこだわる。なぜか。

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劇団を始めること。劇団とはなにか?

なぜ劇団にこだわるのか?~創作における劇団の利点と可能性~


<アマヤドリ_ロクな死にかた(2016)>

まず、演劇界で活動していくためには、どんな個人であれ複数の異なる集団への対応を求められる。俳優を例にとって考えてみよう。

まず、第一には観客。「この俳優はおもしろい!」といってくれる観客がいなければ俳優というものは存在価値が生まれない。

第二には演出家・共演者など創作を共にする共同創作者。いくら美男子や美少女で観客がその容姿だけでも価値があると思うようなパフォーマーであっても、演出家や共演者に認めてもらえなければ現場はない。

第三に、芸術的な事柄にはコミットしない協力者たち。劇場の方、事務所の方、マネージャー、プロデューサー、あるいは資金提供者などへの対応……。

と、このように演劇界で生き抜いていくためにはあれこれと対応しなければならない人たちが大勢いる。そんなことを言ったらどこの業界だって同じことだろうが、それぞれに大切な人たちとの決してミスを犯してはならないような付き合いを、しかも、腹を割ってそれらの付き合いをこなしていかなければいけないわけで、これはなかなかに大変な仕事だ。

特に、芸術的なことと、芸術的ではないことが渾然一体となって押し寄せてくるあたり、とても大変な作業だといっていい。劇団はアーティストを取り囲むそういった諸問題から個人を守る防波堤のような役割を果たすことができる。

まあ、極論、事務所やら友人関係やらでそういった防波堤を築いていける人はそれでもまったく問題はないだろう。ただ、そういったものも必要だと僕は感じている。その上で、僕の考える劇団の利点というのを改めて整理してみたい。それは、大別すれば以下の4点となる。

    1. 創作における技術・価値観を蓄積し、ともに育てていくことができる。
    2. 創作の基盤となる場所・環境・知名度などを個人が利用し、ともに育てていくことができる。
    3. 先輩・後輩関係を含め、集団を通じて相互の人間を磨き上げていくことができる。
    4. 芸術的独立が確保できる。

(1)創作における技術・価値観を蓄積し、ともに育てていくことができる


<ひょっとこ乱舞_プラスチックレモン(2008)>

長くなりすぎてもいけないからサクサク行こう。まず、「(1)創作における技術・価値観を蓄積し、ともに育てていくことができる」についてはほとんど説明の必要がないだろう。

人間には、個人で蓄積できる情報と、集団でなければ蓄積できない情報があるように僕は思う。集団というのは、そもそも個人では扱えない量の情報をコントロールするために存在している側面があるわけが、劇団もまさにそういった意味で価値がある。

たとえば、俳優としての技術、悩み、公演を打つ際に観客にどう対応するか、宣伝は?など無数の情報を劇団は蓄積している。そして演劇界においてとりわけ重要になってくるのが価値観の共有だ。

というのも、演劇は普遍のルールのもとで創作を競うような種類の取り組みではないからだ。言うなれば、演劇とは方法のことだ。ルールは常に変わっていくし、それぞれの創作者には価値観/ルールの変更をする権利が委ねられている。これは芸術に固有の問題だといってよい。

たとえばサッカー業界だったら、サッカーというのはこういうルールで試合をやります、という合意が各チーム、場合によっては世界的に取れた上で試合が行われる。

しかし、演劇においては何がゴールなのか、何が勝利なのか判然としない。だから、その場所、現場、演出家によってルールそのものが変わってしまうのだ。顕著な例として「笑い」が挙げられるだろう。

ある舞台俳優が笑える演技プランを考えて披露したとして、「それいいね!おもしろいじゃん!」といってもらえる現場と、「あ、そういうのいらないから」と言われてしまう現場と、これは実際に存在する。

ルールは、現場ごとに変わる。変わらざるを得ない。もちろん演劇人は様々な現場に対応できるだけの柔軟性をもっていなければならないわけだが、しかし、アーティスト達がその都度、その都度、まったく別の価値観に翻弄されてしまっていては、何が正しいのかわけがわからなくなってしまう。

だからこそ、演劇においてはある程度固定的な価値観の共有できる環境の中で、自分の価値観をしっかりと育てる期間を持つことが決定的に重要になってくる。と、僕は考える。

劇団はまた、演出家にとっても有意義だ。ルールを熟知しているプレイヤーの存在は何かにつけて創作のスピードを上げてくれる。

どんな現場であれ有限の時間の中で創作は行われるわけだから、一から全部説明しないで済む仲間を持っていることは、作品の質に直結する要素だと言えるだろう。


<アマヤドリ_月の剥がれる(2016)>

さらに言えば、劇団という長く時間をともにする集団においてはルール変更に際しての主導権の交代がしばしば起こる。

アマヤドリでもダンス部分はほとんど笠井里美の創造性によって成立しているといってよいし、文芸助手の稲富祐介加入後は、戯曲について討議のもとで創作が進んでいる。

こんなことが可能になるのも、もちろん僕自身がそういった方法を選んでいるということあるが、劇団員との関係の深さ、質の高さによる部分が大きい。

演出家の考え方の表層ではなく目指すべき根幹の部分が共有されていれば、個別のメンバーが発信して、芸術のあり方に新しい方法を持ち込むことができる。これが集団創作の醍醐味だろう。

本来、プロデュース公演であっても絶対的な指示を出す人間とそれを受動的に聞く人間がいるべきでは決してなく、個々のメンバーが、ルールそのものに変革をもたらすような刺激的な存在であるべきだ。優れた俳優たちというのは、そういった提案ができる人たちのことだろう。

サクサク書いていくと言いながら髄分長くなってしまったが、このひとつ目の理由が劇団が劇団であることの利点の最大のものだと僕は考えているのでよしとしよう。

ここからは本当にサクサクと……。

(2)創作の基盤となる場所・環境・知名度などを個人が利用し、ともに育てていくことができる

「(2)創作の基盤となる場所・環境・知名度などを個人が利用し、ともに育てていくことができる」に関してだが、これは別の言葉で言えばブランディングということ。

広田淳一は確かにアマヤドリの中心人物であるが、お客様は必ずしも僕の名前ばかりで集まっているわけではない。個別の俳優が目当ての方もいるが、それ以上に「アマヤドリがおもしろいらしいよ」という劇団の持っている知名度によって集客している側面が大きい。

噂が広がっていくのには時間がかかるから、劇団という組織において長期的に知名度を育てていけることは大きい。それは一般の観客に対してだけではなく、新聞や情報誌、web媒体などメディアに対してそうであるし、助成金を取得する際に実績を社会的に証明していくためにも、やはり劇団という器は役に立つ。


<アマヤドリ_月の剥がれる(2016)>

(3)先輩・後輩関係を含め、集団を通じて相互の人間を磨き上げていくことができる

続いて、「(3)先輩・後輩関係を含め、集団を通じて相互の人間を磨き上げていくことができる」。

これはウザさと紙一重とも言えることだが、人間、初めまして、なんて言っているうちはお互いのいい面を見せあっているから大概うまくいくものだ。

恋人だってそうだろう。ただ、人間と人間が付き合うということはもう少し不愉快なものを含むものだ。長年連れ添った夫婦たちが長続きのコツをしばしば「忍耐」という言葉で表現するのも、楽しいことばかりではない人間関係の側面を現したものだろう。

他者と向き合う、という文学、演劇において非常に本質的な問題に向き合う際、僕らはいかにして、不快なものでもある隣人と付き合い続けていけるか、を学ぶ必要がある。

出会いはいつだってきらめいているものだし、楽しいものだ。しかし、お互いがお互いであることの新鮮さをとうに失ってしまった後にこそ、本当に進歩しあえるような関係性が待っている。僕はそう、考える。

(4)芸術的独立が確保できる

最後に、「(4)芸術的独立が確保できる」についても触れておく。

これは小劇場を中心とする劇団に特に顕著に言えることだが、経済・商業的成功と切り離したところで芸術について考えることができるというのは大変有意義なことだ。

小劇場の劇団は大抵、その参加メンバーに対して、その労働時間と専門性に見合った対価を金銭としては支払えていない。もちろん、これはプラスの側面ばかりではないし、いつまでも経済的な成功を掴めなければ演劇人たちの多くも演劇を辞めざるを得なくなっていく。

「喰っていける」ことはとても大切だ。だが、しっかりと個々の俳優たちが経済的に豊かになっていくためにはそれこそ膨大な資金が必要になっていくわけで、いつしかその現実は創作の内部にまで食い込んでいくだろう。

作りたいと思った作品ありき、ではなく、売れるものが優先されるようになり、それはやがて、実力のある俳優よりも、人気のある俳優、客を呼べる俳優、という問題へとつながっていく。

それらの問題を、誰かを悪者にして簡単に解決しようとは僕は思わない。経済的な側面をカバーしつつ、それでも芸術的な価値にこだわって創作を続けていくこと。時には、失敗をすることを恐れず、芸術的な挑戦をしていくこと、そのための場所として劇団が独立していることは極めて重要なことだ。

と、まあ、今回はこのぐらいで……。

広田淳一(ひろた・じゅんいち)


1978年生まれ、東京都出身。2001年、東京大学在学中に「アマヤドリ」の前身である「ひょっとこ乱舞」を旗揚げ。全作品で脚本・演出を担当し、しばしば出演。
Twitter @binirock

アマヤドリ

2001年に「ひょっとこ乱舞」として結成。2012年に「アマヤドリ」へと改称。広田淳一によるオリジナル戯曲を中心に、現代口語から散文詩まで扱う「変幻自在の劇言語」と、クラッピングや群舞など音楽・ダンス的な要素も節操なく取り入れた「自由自在の身体性」を両輪として活動。リズムとスピード、論理と情熱、悪意とアイロニー、とか、そういったものを縦横に駆使して、「秩序立てられたカオス」としての舞台表現を追求している。

【次回公演】

※公演終了
アマヤドリ本公演『銀髪』
■日程:2017年1月26日(木)〜31日(火)
■場所:本多劇場(下北沢)

「銀髪」公演詳細ページ
→  http://amayadori.co.jp/archives/8910